計画なき人生(信頼を生きる):Sat Chit Anand #25 サット チット アナンド

質問
OSHO、人は計画なしに生きることができるのでしょうか?
ぼんやりした 夢以外にも 私のマインドの活動は、かなり計画することに 向かっています、来週あるいは 来月の計画に、そして私は自発自在に行動しようとすると ちょうど風向計みたいなもので 風がどこから吹くか わかりません。



OSHOの答え
未来について計画することと、未来の中に生きるというのは別物だ。
未来についての計画は、現在のことだ。
現在にいればいるほど計画はよくできる。
計画という行為は現在のものだ、
しかし、マインドについての問題点は未来の中に生き始めるということだ。
来るべき黄金の日々のことを考え始める。
それは計画ではない。
白昼夢だ。
計画について注意すべき点は、
未来についての計画と、
未来の中に生きるというのは、違うということだ。
計画するとは現在の瞬間の行動だ。

そして現在にいればいるほど、物事ははっきりと明晰になり、
ぼんやりした夢のようなもの無しに計画することができるようになる。
あなたは言う「私のマインドの活動は、かなり計画することに向かっています。来週あるいは来月の計画に、、、」これでは現在に留まっていない。
現在に留まったらマインドはなくなる。
マインドは現在に存在することはできない。
そしてマインドがなかったら、そこに明晰さ絶対的な明晰さが生まれる。
この明晰さによって、あなたは未来を見通すことができる。

何か途方もなく重要なことが、
あなたに起こってくる。

しかし、マインドの活動はただ未来に生きることだ。

来週、来月、来年、来生。
あなたは計画の名のもとに生きることを延期している。
延期せずに生きるのだ。


その瞬間に生きる。
そして瞬間に生きていると、
そこから現れる明晰さによって
見えるようになる。
それは、マインドの活動ではない、
これから現われるより良い瞬間が、
見えるようになるのだ。

あなたはこの瞬間を生きたので、あなたにはわかる。
自分をもっと深く生きられる、
もっと楽しく生きられる。
そこに限界はない。

そして次の瞬間が来る時、あなたはたちまちもっと深く入って行く。
もっと楽しみ、もっと遊びに満ち、もっとユーモラスになる。
一度に一つの瞬間しかない。
だからもし一つの瞬間を生きる術を知った。
そしてあなたは真実の一端を知ったので、
次の瞬間にはもっと大きな分け前が手に入るだろう。
そのことによって自分の一生を計画することができる。


しかしそれについて計画する必要はない。

なぜなら計画すると、生きることを忘れてしまうからだ。
自発自在に生きる人間には、二つのことが起こる。
一つは決して延期することはないこと、
二つ目はその未来は現在を通じ、現在の体験を通じて生きられる。


それと、計画はマインドの活動ではなく意識の拡大であり、
日々深くなって行く生の理解となる。

活動は美しくなり。
人間的になり。
満たされるようになる。

あなたは言う「そして私が、自発自在に行動しようとすると、
丁度、風向計みたいなもので風がどこから吹くかわかりません。

分からなくてもいいのだ!
自発自在な人はちょうど風向計のようなものだ。
風向計にとっては風がどこから吹いてこようが関係がない。
南でも、東でも、西でも、北でも、
どこから吹いてこようが風向計はそちらの方角を向くだけだ。
それによって風の吹く方角がわかる。

抵抗することなく、全く自由にどの方角でも、
風と闘うことがない。
どこまでも自発自在で決して過去に生きることなく、
未来に生きることもない。
ただひたすら、現在を表すのみだ。
あなたは、非常に美しい言葉を選んだ。
自発自在な生き方のことを風向計と!
しかし、風向計が風の吹く方角を知ってどうなるだろう。

あなたのマインドは、風の吹く方角を知りたがる。
なぜならあなたのマインドには、
存在に反するような自分の計画があるからだ。
西向きの風が欲しいのに、風は東向きに吹いている。
それでマインドは不満を抱き腹を立てる。
そしてどうにかして、いやいやながら東に向かって進む。

しかしマインドがそうしている間に、
というのも風はあなたのマインドのことや、
あなたの期待を叶えることなど構っていないのだ。
今度は西向きに吹き始める。
するとマインドはまた不満を感じて言う、
困ったもんだ、東に行きたいと思う時には西向きに吹いて、
それなら西に行こうと思うと、また風向きが変わる。

こんなことがある。

『人間が企て神が定める』と、
しかし神などいないし誰も定めはしない。
企てること自体が間違っている。

自分の側から企てるということは存在を信頼していないということだ。

風向計になればいい。
ゆっくりと抵抗することなく ーー 風の動く方向に動く。
どんな方向でも楽しむ。
生をそっくり楽しむのだ。
存在のあらゆる色合いを楽しむ。
しかしマインドというのは、
あなたに備わったものの中でも、とりわけ愚かなものだ。

朝になれば夜をのぞみ、夜になれば朝を望む。
あらゆる苦悩と不満の現況だ。
何の必要がある、
どうして風向計が風の吹き方を知りたがる。
どういうことだろう!

その必要があるのか!

果たして木々は風の吹き方を知っているのだろうか?
星々はどうだろう!
人間以外には、
存在に背いて進もうとするのものは誰もいない。
だからこそみんな幸せで、至福に満ちている。
彼らは豊かではない。

この可哀想な木々は、一体何を持っているんだろう。
しかし彼らは自発自在だ。
風が吹けば踊り、吹かなければ休む。
どちらも等しく受け入れる。

途方もない信頼が大地、空、風、太陽の間に存在する。
太陽が登り始めると木々は目覚める。
目覚まし時計はいらない。
太陽が沈むとみんな眠りにつく。

太陽が沈むと鳥たちはねぐらに帰っていく。
休息の時間だ!
誰も早く寝なさいと教えたりしない。
朝日が昇ると、みんな目覚め ーー さえずりはじめ喜びの声を上げ楽しむ
新しい一日を歓迎する。

生は豊富に与える。
再び空に太陽が現れ ーー そして美しい朝、鳥たちの喜び,

彼らは自分の中にしまっておかない。

その歌は計画したものではない ーー 前日の夕方、巣に戻って休む時、
朝日の朝何があってもとか計画するわけではない。 

その必要はない。

朝がやってきたときーー 歌は自然に現れる。
それはシンクロニシティ ーー 存在との深い同調だ!
花は決めたりしない、彼らには委員会などない、書類もない。
何も決定しないし未来のことを計画したりしない。

春が来たら花開き、秋が来たら木々は裸になる。
葉っぱはみんな落ちる。
どこにも悲しみはない。
葉っぱがなくなったからといって涙を流したりしない、
彼らはそれも楽しむ。
葉っぱ無しで空中に立つ、
木には木の美しさがある。
枝葉が生えそろったら、それはまた美しい。
しかしその美しさは、また別種のものだ。

存在にはあらゆる色合いがある。
そして計画するのは人間だけだ。
また人間ほど混乱しているものは他にない。
なぜなら計画するというのも実のところ生きるのを延期することだからだ!

どちらから風が吹くか知る必要はない。
ただそれと共に行けばいい。
決してそのことで道を間違えることはない。
なぜなら、この存在はそっくり私達のものだからだ。
どこにたどり着いてもそれは私たちの家だ。
風は決してあなたを存在の外へ連れ出したりはしない。

ところがマインドは、あなたを存在の外へ連れ出す。
マインドのみがあなたを夢の中へと連れて行く ーー ありもしない幻の中へ そしてあまりにもそれに囚われてしまうから。

あなたは、
存在によって道を間違うということが決してないということを忘れてしまう。
自発的自発自在な人間のみが存在と調和している。
そして、自発自在な人間のみがいつも至福に満ちている。
なぜなら何が起ころうともすぐさま自分自身がそれと調和していることを 見つけるからだ!
自分自身の欲望も期待も企てもない。
自分は宇宙の一部だということが分かっている。
そして全体が向かうところどこへでも喜んで向かう。
なぜなら、全体の方が当然ながら部分よりも賢いからだ。
そして私たちはあまりにも小さな部分だから、
計画をする方が愚かに見える。
宇宙全体には全く何の計画もない。
全ては何の計画もなく動いていき瞬間ごとに深くなって行く。
人間だけがいつまでも表面的だ ーー
生きていないにも関わらず ーー いつか生きようと考え続ける。
しかしその時は決してやってこない。

Sat Chit Anand #25 Nobody Planning Except Men

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