受け容れること(受容性)について:OSHOの講話(Living TAO)より

OSHOへの質問
受け容れることについて 説明していただけますか?
そしてどのようにしたらそれを学べるのでしょうか?
なぜなら、私の中のある部分は、
受け入れることを望んでいないと感じるのです。
私は私の中のその”愚か”な部分が、
誰なのかを知りたいのです。
それを、私自身のためにはっきりさせたいのです。

OSHOの答え
一つ言えることは、
あなたは、「受け入れる」ということの意味を理解する必要がある。
あなたが言うには、
”「私は受け入れる」ということを知りたいのです。
そして、その学ぶ方法を知りたいのです。
なぜなら、私の中の一部分は、
受け入れることを望んでいないと感じるのです”と言っている。
その”受け容れることをのぞんでいない”という部分も受け入れなさい、
さもなければあなたは理解できていない。

あなたの中の、ある部分が拒否し続ける。
その拒否し続ける部分もまた受け入れなさい。
さもないと、あなたは理解していないことになる。

その部分を拒否しないこと、それを受け入れなさい。
それが完全な「受け入れ」というものだ。
あなたは、あなたが拒否していることもまた受け入れなければならない。
あなたは、「私は自分の”愚か”な部分を知りたい」と言うが、
あなたが、自分は”愚か”だと言う瞬間、
すでにそのことを拒否しているのだ、

なぜあなたは、自分を”愚か”だと言っているのか?
自分を”愚か”だと言っているのは誰様だ!
その、愚かだと貴方が言っている部分もあなたの一部分なのだ!
なぜあなたは 自分を二つに分割しているのかね!

受け容れたい部分と、
受け容れたくないと感じている部分の二つに、

あなたは全体なのだ!
あなたが学んできた策略を、自分を断片化して来た全てを落としなさい。
あなたは、自分を「神と悪魔」、
「いいことと悪いこと」
「 高いと低い」に分割してきた。
これら分割を全て落としなさい!
それが「受け入れる」ということだ!

もし、あなたが何かを持っているとすれば、
あなたは持っているのだ。
どうして、あなたは自分を”愚か”だと言うんだね。
何様があなたを”愚か”だと呼んでいるんだ!
そもそも、自分を”愚か”だと呼んでいるのは、
自分を非難していることだ。

「受け入れる」ということの意味は、
どのような非難も持ち込まないということだ。
それがどのような場合であろうと、あなたは「受け入れる」。
すると突然あなたの実存に変容が起こる。

それを”愚か”だと呼ばないこと、名前を付けて呼ばないこと、
自分自身を分断しないこと!
なぜなら それ自体、
エゴが存在しようとするやり方なのだからだ。
もう一つの部分を”愚か”だと言っているのは、それはエゴだ!
エゴは いつもそうしてきた。

自分は知的だ
自分には理解がある、
自分は偉大だ、

そして他を非難し続ける。

エゴはあなたに体を否定しろと教える。
なぜなら体は物質的で、あなたはスピリチュアルだからだ。
エゴはあなたに、
これを非難しろ、
あれを非難しろと言う。

これら全ては、何世紀にもわたって行われてきた。
宗教的な人は これをひっきりなしにやっている。
しかし、彼らはどこにもたどり着いていない。
実際、彼らは全人類を精神分裂にしてしまった。
彼らは、全ての人を完全に分断してきた。

あなたは、内側に仕切りを持っている。
これは良くてあれは悪い
愛は良くて嫌悪は悪い
慈悲は良くて怒りは悪いと。

私が、「受け入れなさいという時、私は全てを受け入れなさい」と言っている。
全ての、区分けを仕切りを落としなさい。
すると、あなたは一つになる。
全てそのままでいいのだ、怒りも使われるべきだし、嫌悪も必要とされる。

実際、あなたが持っているもの、すべてが必要とされる。
多分違った風に整えられるべきなのだが、
しかし、何であれ非難されたり排除されるべきではない。
あなた自身のことを、何であれ”愚か”(馬鹿)呼ばわりしないこと。

そしてあなたは、
その部分を自分のためにもっとはっきりさせたいと尋ねている。
どうしてなのだ、あなたは、
自分の中に隠された部分があることを「受け入れる」ことが出来ないのかね。

自分の中の、暗い部分を受け入れられないのかね。
あなたは、昼であると同時に夜なのだ!
いくらかは光であり、いくらかは闇だ。
それはそうであるべきだ!
さもないと、あなたはただ表面的だ。
あなたには深みがない。
深みは闇の中にあるべきなのだ。

もし木が 自分の根っこを知りたいと、引っこ抜いたとしたら、
木は死んでしまうだろう。

なぜなら、根っこは暗闇の深いところに存在しているからだ。
地中に深く隠されていて、
それを引き抜く必要はない。
もしあなたがそうしたら、木は死んでしまうだろう。
あなたには、光の部分が必要だが、
同じように、闇の部分も必要なのだ。

しかし、宗教的な人がやり続けていることは、
危険だ!

彼らは、あなたに神は光なりと教えてきた。
私は、あなたに神は光と闇の両方だと言いたい。
なぜなら、神がただ単に光だとしたら、
それはそんなに豊かではない。
彼は、根っこのない木のようなものだ。
彼は、単なる玄関だ。
家の中にある家具でもない。
家には玄関も必要だが、
家には家具も必要だ。
家には両方ともが完全に必要なのだ。

なぜなら、あなたの深みの部分はその中にある。
理解するという意味は、
全てを光の中にもたらさなくてはならないということではない。

「受けいれる」ことを理解するという意味は
全てを、あるがまま、
そのままであらしめるということだ、
「受け容れること」の理解とは
どんな努力でもない。
それは、何であれ変えないこと!
それは違うのだ、
「受け容れる」ことの理解とは、全てをあるがままにということ、
全てを、あるがままにということを通して、

変容がある。
革命がある。
転換がある。

あなたは完全に変わってしまう。
ひとたびあなたが、
すべてには存在する理由があることを知ったら、
あなたは、あるがままに対して邪魔することを止め、
自然と共にあなたは流れていく

あなたは、川の流れを押さなくなる。
単に流れとともに漂う。
それがタオの言っていること、
老子の言っている教えのすべては、
「あなたの側で やるべきものは 一つも必要がない」
あなたのために必要な全ては、
すでになされている。

あなたは、単に受け入れるだけ、そして流れていく!
物事を、ただそうであるがままに在らしめなさい。

何かを変えるための、どんな努力も作り出さないこと、
なぜなら、変えるためのどんな努力も、
あなたのマインドに緊張をもたらす。

そもそも、変えようとする努力自体が、
未来を持ち込むことになり、神を非難することだ。
それは、あなたは神に向かって、
私はあなたより利口だ、
私はあなたの行いの上に 修正を加えることが出来ると言う。

そんな必要はない、
ただ、深い手放しの状態にありなさい。
そして漂いなさい。

それは難しい!
なぜならエゴは言うだろう。

この方法では、あなたはどこへも辿り着かない。
しかしあなたはどこにたどり着いたのかね!

あなたは既にそこにいるのだ!
エゴは、この方法ではあなたは成長しないと言う。
しかし、成長することにどんなポイントがあるのかね。
全ての瞬間が完全なのだ!成長してあなたはどこに行きたいのかね!
何のために成長したいのかね!

エゴは、あなたを成長のために、
欲望のためにとプッシュし続ける。
あなたに、これをやれ、あれをやれ、と言って、
あなたが少しでも休むことを許さない。

全体のあり様は、タオのビジョンは、
リラックスして楽しむこと。
楽しむことで、
物事すべては、それ自身で落ち着きを取り戻す。

全存在は途方もない美しい方法で生き続ける。
なぜ、人間だけが問題を作り出すのだ。
なぜなら、
どんな犬も 何も試みようとはしない。
バラはハスになろうとはしないし、
ハスも何か他のものになろうとはしない。
すべては、それ自身のままで、
満足している。
祝っている。
ただ、人間だけが狂っている。
彼は、何かになりたい。
何かを証明したい。
あなたには見えないのかね!
祝祭が周り中に起きているのを、
ただ、あなただけがそこに加わっていないのだ。
見えないのかね!
なぜならあなたは考えることができるからだ。
考えることは、存在との間に隔たりをもたらす。
自分自身のどのような部分についても、
”愚か”呼ばわりしないこと。

あなたは神をバカ呼ばわりしているのだ!
非難しないこと。
なぜなら、全ての非難は、
神に対しての非難になるからだ。

あなたは全体からやってきた、
全体は、あなたよりよく知っている。
全体の知恵が働くのを赦しなさい。
そこに、あなたのちっぽけなマインドを持ち込まないこと。
闘いのために、流れに逆らって上流に向かう必要はない。
あなたは、どこにもたどり着かないだろう。

あなたは、単に疲れ切ってしまう。
闘わないこと。
物事を起こらせなさい、それが「受け入れる」ということだ。

それは手放しだ!
あなたは、完全に引退したかのようだ。
あなたは生きる!
あなたは行動する。
しかし、あなたは、
物事を自然に自発的に行う。
それは起こる。
あなたはやりたいと感じることをやる。
やりたいと感じないことはやらない。
あなたは、徐々に自然の営みの中に落ちていく。
そしてあなたはもっと自然になっていく、
より自然に、
より宗教的に

グルジェフは非情に美しいことを良く言っていた。
今までの、全ての宗教は神に反している。
私には彼の言っている意味が良く分かる。
それは、ずっと悲惨だった。

全ての宗教は神に反している。
彼らはあなたのエゴを膨らめる。
あなたを特別にする、高みに上げる、超人間に、スピリチュアルに。

全てがナンセンスだ。
あなたは、ただ普通であることを楽しむべきだ。
普通であることが、
あなたに起こることでもっとも並外れたこと。

しかし、並外れたものへの欲望は、
宗教的、超能力、
この世界ではない、あちらの世界的であること。
それは熱狂だ。

自然な宗教はタオだけだ。
他のその他の宗教は微妙な形で不自然だ。
老子が言うには、人類の全未来は、そして至福の可能性は、
恩寵の可能性は彼の光を通してだ。
彼の道を通してだ。

なぜあなたは、
ただ、在ることができないのだ!
数日間試して見なさい。

ただ,在りなさい!

一度あなたが味わったならば、
それはそんなに難しくはない。
一度,実存の小さな窓が開いたなら、
かつて、いつも努力し続けていたことを、
あなたは笑い出すだろう!




ただ、在ると言うことがメッセージだ!

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